「当時はAKオフをプリフロで降りてました(笑)」マカオ定住プレイヤーのパイオニア・矢倉賢一インタビュー。

Posted on Posted in 第1の都市・Hong Kong(香港),Macau(澳門)/China

 

 現在、日本人がポーカーで生計を立てるには、大きく分けて二種類の方法がある。一つは、「Poker Stars」や「Full Tilt Poker」のような海外サイトを利用してオンラインでリアルマネーを賭ける方法。もう一つは、海外に実際に定住しカジノで金を賭ける方法だ。

2008年よりマカオに定住し約3年もの間、外国人相手にポーカーを打ち続けた兄弟がいる。ポーカー界で有名な「矢倉兄弟」である。ほとんどの日本人が、ポーカーと聞くと手札に5枚のカードを用いるドローポーカーを思い浮かべていた頃から、二人はホールデムのプロとして生活していたのだ。まさに日本ポーカー界のパイオニア的存在である。

今回、矢倉兄弟の兄、賢一氏に、当時のマカオの様子やご自身のポーカー観を取材させて頂いた。

 

 

 

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矢倉賢一氏。今回快く取材を承諾して頂いた。
ニューオープンしたての矢倉氏のお店にて。

 

 

─  ポーカーを始められる前は?

「ポーカーを始める前は、東京で麻雀協会に所属していました。一番大事なリーグ戦の最終節に遅刻しちゃって。。そのまま辞めてしまいましたね(笑)。ちょろっと本当におもしろいのかなと試してみたくて始めただけだったんで」

─ ポーカーを知ったきっかけは?

「Nさんていう人物がいるんですが、彼が謎にアメリカに行ってて。別に留学でもなんでもないんですが。半年から1年くらいして帰ってきたときに連絡がありました。『すごい話があるぞ。すごいことを教えてやるからちょっと来い』と。そこで教えられたのがNLH(ノーリミットホールデム)でした。僕は『何これ、めっちゃおもしろい』と思いすぐにハマりました。それが2007年の秋頃。そのNさんのポーカー話に食いついたのが、僕ともう一人、小倉孝でした。もともと、彼とは麻雀協会が一緒で面識あったけど、彼はAリーグ。それまでは麻雀を一緒にすることも、遊ぶこともなかったんですがね。

最初、教えてくれたNさんも下手かった。『ポーカーは食える』とか言いながらめっちゃ下手い(笑)。当然、僕も小倉も下手い。でも、段々と上手くなってくると、勝てる人と負ける人が分かれてくる。中でも、小倉が最初に上手くなった。彼は負けなかったっすね。で、麻雀業界で流行らそうと思ったんですが、この業界の人ってあんまりお金持ってなかったので、仲間内では続かなくなっちゃったんすよ」

─ 当時アミューズはあったんですか?

「アキバギルドはなかったですね。コーナーポケットとかは既にありましたが。ちなみにNは一瞬だけコーナーポケットでバイトしてます。客を引きたかったのかも(笑)。

で、その頃に一緒にポーカーをしてたのがライアン・モリスでした。(ライアン・モリスとは、近代麻雀でコラムを書いたりしている、日本にとっても造詣の深いアメリカ人。麻雀界では有名人。こんな方です)Nがたまたま声をかけたんですが、ライアンは『え、俺が本気(マジ)でやっていいの?』みたいなノリで返事してきて(笑)。このときに本格的にライアンの凄さを知りましたね。小倉は強いなぁと思ってたけど、ライアンはもっと強かった。なんと言うか、ポーカーってこうやっていいんだってのを教えてくれましたね。僕たち日本人って農耕民族的なプレイって言ったらいいのか、ポットを奪い取るって感覚よりきれいに勝つってスタイルをやってたんですよ。『セットしました』『ナッツフラッシュです』『ローストレートです。あ、こちらはハイストレートです』みたいな(笑)。ポットを美しくゲットしていくというポーカー。それを面白いと思っていた」

─ フィット•オア•フォールドといったスタイルですか?

「そうです。いい手を待って、強い手が来たときに攻めるというスタイル。ところが、モリスは違ってた。彼は『フォールドエクイティ』とかそういう概念も『これがこうなるから、ええんちゃうの?』って超関西弁で教えてくれるんですよ(笑)。でも、僕らは『何でそんな両面でオールインできるの?』とか、『ダイヤ出やんかったらどーすんの』とか言ってた。本当にそういレベルだった。その場で答えてもらっても納得できる技量もなかったし、ポーカーが終わった後に、みんなで飯食いながら『うーん』とか言いながら話し合ってましたね。で、『やっぱりライアンの言ってることが正しいな』みたいな結論になって、mixiで質問したりしてました。ライアン先生教えてください状態ですよ(笑)」

その頃から、海外に行こうと思ってました。ちょっとはお金を貯めてたんで、どこ行こうかなってめっちゃ調べてたんですよ。そしたら、2008年春頃にマカオのグランドリスボアにポーカールームができるっていう情報が入って。そのときに200万円持ってマカオに行こうと決めました」

 

 

 

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こちらの七色に輝く異形のビルがグランドリスボア。
矢倉氏が数々のドラマを生み出した主戦場である。

 

 

─ 当時どれくらいのレートで始められたんですか?

「当時のレートは25/50HKD、50/100HKDでした。100/200HKDはあったけど卓が立たなかった。で、レーキは5%なんですが、CAP(レーキの上限)が高かった。なんと500HKDだったんですよ。Nさんにレーキを聞かれたときにCAP500HKDだと説明すると、『ベガスの10倍くらいやん!それ絶対一桁間違えているで』と驚かれました(笑)。それでも10卓くらいあって、いつも3-4卓は立ってましたね。普段は25/50HKDをメインで常連達と打ってました。で、下手な人が迷い込んできたら、50/100にレート上げたりして(笑)。100/200は自分の中で最高レートのつもりで、トーナメント期間中や旧正月のときだけ打ってました。相手は遊びにきている中国人や、マカオで事業をしている韓国人。韓国人は多分ジャンケットだったんじゃないんですかね。彼らがめちゃめちゃ負けてました。始めは遊び金なのか余裕そうでしたが、最後らへんはフラフラになってました(笑)」

─ グランドリスボア以外にポーカーはなかったんですか?

「スターワールドにポーカープロっていう機械の台がありました。僕らは『クソゲー』って呼んでましたが(笑)。レートは25/50HKDのCAP100HKD。ヘッズアップ用と9人用のテーブルがあって、カードのディーリングとか全部やってくれるんですよ。レーキが安かったんで下手い韓国人のおじさんとかとヘッズアップをよくやってましたね。ヘッズアップは、ゲーセンの対戦ゲーム機みたいな感じ。僕は初めて見たとき、『すげえ、超画期的』と思ってたんですが、誰も座ってなくって廃れてました(笑)。最近City Of Dreamsに機械でやるポーカー台がが入ったらしいすね。こういうのは新しい人に広めるにはいいと思います。キャッチーで」

─ その後に続々とポーカールームができてきたと。

「グランドリスボアができた後にグランドワールドっていう所にポーカールームができて、ここでAPPTマカオが初めてトーナメントをしたんですよ。でも場所が悪すぎてすぐにポーカールームが潰れた。だってタクシーが来ないんすよ(笑)。それで、次にできたのがスターワールドでした。オーナーはマイク・キムです」

─ マイク・キムってフィリピンにポーカールームを開いているあの韓国人の?

「そうです。当時はスターワールドの中でルームを開いてました。今はポーカーキングって名前で別のオーナーがやってますが、当時はマイクがやってました。ここはレートが高かった。100/200HKDと200/400HKD。グランドリスボアでは1万HKDもチップを買うと、『お、ようけ買うねー』って感じでしたが、スターワールドでは上手い人は10万HKDも持ってテーブルに入ったりしてました。レートが高かったんで、デビューするときは小倉さんとノリ(二人で出資額と儲けを半分にすること)で打ったこともありましたね。ハイレートのときのハンドレンジは相当締めてました。すべてのポケットペアと、スーテッドエース。AKとAQのオフスートはプリフロで捨ててました(笑)」

─ マジすか(笑)

「マジです(笑)。今やったら絶対みんなに笑われますけどね(笑)。でも当時は200/400HKDなんて絶対負けられない額だったんで。スーパーディープスタックでのトップペア・トップキッカーの使い方がわからなかったんです。ポットに金入れるハンドじゃないなって思ってて。セットオーバーセットについてもめっちゃ議論しましたね。議論の末、『そこまで気にする確率じゃないね』という結論に達しました。まあ、その後めちゃくちゃ痛い目に合うんすけどね(笑)。

次にできたのがウィン。2009年の中頃だったと思います。ここは1卓に10プレイヤーズだったんで、それが嫌であまり通いませんでした。他と比べてレベルが高かったのも理由の一つです。で、最後にできたのがベネチアンでした。

ルームごとに特徴があって、グランドリスボアは中国系。ベネチアンは中東系、ウィンは欧米系の人が多かった。多分プロモーションの違いだと思うんですが、ホテルの備品一つをとっても、その国の人に好まれる物を置いていたと思う。

始めはめっちゃ狭いハンドレンジで勝負してたんですよ。各ポジションのスターティングハンドとかメモしてあるレンジ表とか使ってました。でもそれ、ノーリミットじゃなくてリミットゲームのハンドレンジなんですよ(笑)。でも転換期があって、グランドリスボアのレーキが下がったんです。CAP200HKDとかになって。それで、もっとポットに参加してもいいかなと思うようになって。この頃にはスウェーデンの若いプレイヤーとか上手いプレイヤーが出てきてて。僕もハンドレンジを広げたかったんですよ」

─ ルーズアグレのスタイルに寄せた方が、もっと稼げると?

「そうです。実際彼らスウェーデン人の登場で200/400HKDなんてハイレートの卓も出てきたんですよ。2008年の秋頃には僕もハンドレンジを広げて、スーテッドのローカードとかを使い始めてました。グランドリスボアでは3betはAA,KK,QQ,AKしかなかったし、ベット額も小さくてハンドを保持できた。ドローも引きにいけた。でも、ウィンのルームのプレイヤーはとても進化してましたね。よりゲームが難解で面白いポーカーをしていた。スクイーズとかもしてくるような」

─ 日本人がマカオに来はじめたのはいつぐらいですか?

「僕らが渡ったときは日本人は皆無でした。あんまりまだ知らなかったんじゃないすか。初めて、日本人の方が少しずつ来だしたんのが2009年くらい。APPTマカオとかのトーナメントです。それから日本人が増え始めましたね。でも、2009年頃の日本人はまだあまり上手ではなかった気がしました。なんて言うんすかね。AAとかで取られてるっていうイメージ」

─ ハイペアを降りられない?

「はい。AAだと大抵全部取られてましたね。そういうのを見ると、『あんま慣れてないのかな』とか思ってました。この点は、ライアンに事前にポーカーを教えてもらってたのが大きかったです。『AAなんか誰からチップを取れるんだよ。プリフロップでしか取れねーから!』って(笑)。でも今はすごく上手い日本人のキャッシュプレイヤーはいっぱいいますね」

 

 

 

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矢倉氏のお店には、戦友である
小倉孝氏からの開店祝いのお花が。

 

 

 

─ 結局マカオにはどれくらい住んでいたのでしょうか?

「2008春頃から2011年にかけてですから、約3年間マカオにいましたね。でもビザの関係で3ヵ月に一週間日本に帰ってました。最初は珠海(※中国の広東省南部の地域。マカオから陸路で行ける)に渡って戻ってきたりもしていました。日本人のパスポートは優秀でしたが、中国人はしんどそうでしたね。大陸からマカオに来ると一週間しかマカオにいられない。一週間経つと一度珠海に出て、日をまたいで戻ってくるとまた一週間か二週間マカオに滞在できる。今度は珠海に出てもビザが復活しないので、今度はタイに行って戻ってくる。中国人の風俗嬢とか大変そうでした。マカオなのに中国人が一番大変だなんてね。

また、APPTマカオの後や旧正月の後とかはマカオが閑散とするんで、旅行とかよくしてましたね。香港やフィリピン、韓国なんかもいってました。マカオ以外の海外のトーナメントなんかもよく出てましたよ」

─ どんなところに住まれていましたか?

「グランドリスボアとスターワールドの間くらいのところに住んでました。財神娯楽場(FOTUNA CASINO)っていうデビット伊東のラーメン屋が入ってるホテルのトイメンのマンションです。ちなみに、このラーメン屋は結構うまい(笑)。よくそのカジノでブラックジャックとかバカラをやってましたね。小倉さんやNさんと(笑)。雨降りとかに、カジノの中からポーカールームへ行けるんで使ってましたが、行く途中にちょっと寄ったりして。まあ、ポーカーやる気をなくすくらい負けたりしてましたが(笑)。

最初に借りた間取りは2LDK。騙されてたんでしょう、1ヵ月で2万5000HKDもしました。セナドっていうサウナがあるんですが、あまりに家賃が高いんでそこの女の子に部屋を貸してました(笑)。バンスっていって、借金している子は寮を出してもらえないんですが、バンスがもう無かったり、減ってきた子は外に出られるんです。普通は男と住んだり友達と住んだりするんですが、その子らが部屋をタダで貸してくれって言ってきて。さすがにタダだとアレなんで、4人で8000HKD払わせましたね。格安ですが。そのお陰もあって1年くらい住んでました」

─ 他の所に引っ越されたんですか?

「ある日、雨漏りで部屋がプールみたいになっちゃって。『誰か蛇口ひねっとんじゃないの?』ってくらい部屋の中に水が流れ込んでた。文句を言って部屋を引っ越したんです。次の部屋へと7階から19階へと移動。今度の部屋は3LDKになって1万5000HKDくらいに値下げ。ベランダがちょっとしょぼくなったけど、すんごいいい部屋でした。そのときからいろんな人が家に遊びに来だした。家具もちゃんとして、ネットも整備しました。ポーカーテーブルと全自動麻雀卓も置いたりして(笑)。グランドリスボアから換金せずにパクってきた黒チップ(100HKDチップ)を5-6万HKD常にテーブルに置いてたんですよ。ポーカーの練習をするために。

一回、売春宿と勘違いした警察に踏み込まれたことがあります。6人くらい機動隊みたいなんが突然入ってきて。結局問題なしでしたが、博打場を開いていても国外退去らしいんで運が良かったです。普通、ポーカーテーブルに雀卓って言い訳できないんじゃないすか(笑)」

─ それにしてもテーブルとか雀卓とかよく手に入りましたね。

「テーブルは2000HKDでした。。HKPH(香港ポーカーハウスというアングラのポーカールーム)のオーナーが友達で、アメリカ人のブランダンって男なんですが彼から売ってもらいました。彼との出会いは、WSOM(ワールドシリーズオブ麻雀)ってう大会なんです。実は、僕はそれで世界2位になってて(笑)」

─ 世界2位!(笑)。ちなみに、、何人参加ですか?

18人です(笑)。誰かが日本式の麻雀を流行らそうとして、ベネチアンで大会を開いたんですが失敗に終わったんですよ。そのときに知り合ったのがブランダンです。彼はリーチすると、サングラスをかけるんです(笑)。多分ポーカー的にリーディングをさせないためです。で、僕がリーチするときも『ケン』と言ってそっとサングラスを差し出してくれるんです(笑)。そこから友情が始まりました。まあHKPHがパクられてそこのテーブルをもらったんですが(笑)。

─ 思い出深い逸品ですね(笑)。では麻雀卓は?

「珠海の国境らへんに変な友達がいて、闇市で色々な物を手配してくれるんです。当時結構暇な時間があったので、デスクトップを買おうとして、その人に手配してもらったり。で、ある日冗談で『麻雀卓ないの?』って聞いたら、即答で『ある』って(笑)。5000HKDって言ってきたので3000HKDって言ったらその値段になりました(笑)」

 

 

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矢倉賢一氏が四日市にオープンしたポーカーバー。
何故か土川鉄也氏のトロフィーが飾られている(笑)

 

 

 

─ 弟さんはいつ頃からマカオにいらっしゃったんですか?

「部屋を引っ越した時期ですね。その頃から弟の高士・Nさん・もう一人の友人がマカオに住むことになります。そして最初は4人で部屋をシェアしてましたね。丁度2009年に入ったくらいだと思います。特に弟はポーカーのルールすら知らないまま、仕事を辞めスーツケース一つで来たので大変だったと思いますね。英語や中国語も全くゼロの状態でしたから(笑)。

ポーカーも『ポーカーて何?』って状態から、最初は最低レートの(今は無き)10/25HKDにミニマムバイインで座り実戦経験を積み始めました。僕は身内に厳しいので、習い初めの弟は悲惨な状況だったと思います。なんせ、外に出れば日本語は通じず、お金はポーカーで稼ぐしかないわけですからね(笑)。僕には耐えられません。でも、数ヶ月後にはディープスタックでプレイできるようになり、また数ヵ月後には25/50HKDにレギュラーで座れるようになっていきました。

ポーカールームの外では、人に対して細やかな気配りができない僕と違い、弟は僕の言葉に傷ついた人と一緒にマッサージにいってグチを聞いてくれたりと、僕たちのコミュニケーションの潤滑剤的な役割もしてくれてました」

─ その後は、弟さんたちとのマカオ生活は上手く回ってたんですね。

「それが、一度かなり怖い目に遭ったことがありました。一度、僕と弟とNさんで深圳(※シンセン・広東省にある経済が発展した地域)に行った時、たまたま出会ったタクシードライバーが『マカオまで500元で行ってやる』と言ってきたんですよ。僕らは『えっ? マカオまで車で行けんのか?』と思いながらも、試してみたことがあるんですよ。

最初は『話してていい感じの人だし、安いしいいねぇ』と思ってたのですが途中からタクシードライバーが何も話さなくなって…。そのときはみんな結構な大金を持ってたので『なんかヤベェ』と感じ出していました。すると車はドラマの撮影で使われるような砂利道にドラム缶が何台も置いてあるようなところに入っていったんですよ。そこには車が何台も停まってて、怖い人達10人ぐらいに囲まれて車から降ろされました。『こっちに乗れ』と言われたときに、僕も弟もNさんも『終わった』と思いましたね。

結局中国裏タクシー業界の縄張り的な絡みの話で、『こっから向こうはこいつらがお前達を乗せて行くから』みたいなことを言われただけだったんですがね。怖い思いしたけど助かりました。そして、マカオまでというのは嘘で、珠海で降りろと言われました(笑)

 

 

 

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まだ真新しい新店舗のポーカーテーブル。
このテーブルから続々とプロが輩出されていくのだろう。

 

 

 

─ 今までの最高勝ち額ってどれくらいですか?

「最高レートが100/200HKDのつもりでやっていて、一時的にトーナメント期間や旧正月だけ200/400HKDで打ったりしてたんで、そこまで大きな金額は賭けてないです。普段は25/50HKDや50/100HKDですから。でも、一番大きいもので50万HKDのポットを取ったことがありますね。100/200HKDのNo-Max。最初は大体みんな4-5万HKD入れてるんですが、朝方とかかなりバイン額も増えたりするんです。そのとき僕はTJsを持っていて、ボードが789。僕がフロップストレート。相手は二人で、56ストレートと99のセットでした。それでフロップで入れ合いに。そのまま逃げ切りましたが」

─ ペアボードにならなくて良かったっすね。

「ええ。他には、金額的には3番目くらいの勝ちでしたが、12-13万HKDのポットを取ったときが面白かった。同じく100/200HKDのレートだったんですが、このとき僕、何も持ってなかったんすよ(笑)

─ クソブラフですか?(笑)。

「フラドロと両面だったんすよ。僕3c5cで結局引けずに5ハイ(笑)

─ 何で勝てるんすか!(笑)

「フロップがK24のツークラブ。ストフラドローだったんで、フロップでバシバシと入れ合いになって、こんなもん降りれるかとオールイン。これはマカオの特徴なんですが、。オールインになってもフロップ・ターン・リバーとめくり切るまでショウダウンしなんです。ポーカールームによってもショウダウンするタイミングは違うんですが。このときは最後に見せるルールでした。相手は超金持ちっぽい若いインド人。後ろでさらに若い弟子みたいなやつが見てて(笑)。ことあるごとに『このハンドはこうで、こうするんだよ』的なことを後ろを振り返りながら説明している様子なんすよ(笑)。むっちゃチリチリの頭で、金のネックレスしてて。プレースタイルもめちゃくちゃアグレ。結局ターンもリバーもブランクで引けず。これは負けたわーと思いました。でも、オールインはインド人からだったんですが、そいつが『You show』とこっちに何度も要求してくる。順番的に相手からショウダウンするルールなんで、まあまあ強い手持っているよって雰囲気を出しながら『You show first』と言い返したら、彼はマック(※カードを伏せて捨てること)したんすよ(笑)」

─ マックって(笑)。 5ハイに負けてるハンドないのに(笑)

「多分フラドロだったんでしょうね。何度も相手に『何を持ってたんだ』って聞かれたから、僕は『キ、キング。キングキング』って何回も言ってマックしました。怖かったんで。まーただの5ハイでしたが(笑)。その経験から、新しくポーカー始める人たちには、ショウダウンの順番は知っとかなあかんよって言うようにしてますね」

─ 勝ちを拾いましたねー(笑)。逆に大負けは?

「負けは大した額を負けてないんすよね。それでも9万HKDくらい。忘れもしないっす。フロップ356のツートーン。僕は47でフロップストレート。相手とフロップで入れ合いになって、相手は47のスーテッド」

─ フリーロールですか?(※同じストレートだけど、相手にはフラッシュの可能性がある状態)

「そうです。でも、フロップには1枚しか落ちていない色だった。ランナーランナーでフラッシュを引かれちゃったんですよ。こんなこともありましたが、でも基本的に大きな負けはしなかった」

─ バイイン額をいくらまでとか、何回バイインしたら辞めるとかルールは決めてたんですが?

「そういうのは決めてなかったですね。あるとしたら、旧正月かトーナメントしかディープスタックでプレイしないってことぐらいですかね。200BBくらいが上限額で、ちょっと勝って300BBをうろついてて、噴くと700BBになってたって感じ。700BB持ってたときはナッツが見える状態じゃないとすぐ降りてましたね。それくらい降ろされてましたし降りてました」

─ 当時を振り返って思うことはありますか?

「今海外で生活している人って、相当ポーカーのことわかってプレイしていると思います。だけど、当時の僕はあんまりやり方がわかってなかったんすよね。例えば、AAを持っていて、リバーでボードにボトムペアができる。これってトップツーペアとかをまくれるいいカードじゃないですか。でも、それが一瞬よくわかんなかったレベル。『ああ、こっちの勝ちなんや』みたいな言われて気づくことがちょくちょくありました。そんな僕でも勝ててた。その理由は二つあって、一つはプリフロのハンドレンジが極端に良かった。他のプレイヤーより断然。そりゃリミットホールデムのスターティングハンド表を使ってたわけですからね(笑)。もう一つが、中国人メチャ下手い(笑)。そんな微妙な僕よりもさらにゲームをわかってなかった。中国人はめっちゃポーカーをするらしいんですが、普段からショウハンドしまくるポーカーをやってるらしくて、すぐオールインになる。中国語でオールインを『ソーヘー(show hand)』て言うんですが、そんな荒っぽいポーカーをするからすぐに負けるわけです。それに気づいた後は、プリフロのレンジを締めるだけで良かった。こっちはAQ、ボードがAQ2で勝ってるわってレベル。トップツーでやっと一安心なんすよ。こっちAJでボードが A4Q。これで相手に押されたら降りてた。プレイヤーが誰であろうと。そんなところで冒険する必要がなかったんっすよ。僕は当時200万から始めたんで、お金が足りるかどうかもわかってなかった」

─ 現在と当時のポーカーを比較してどの点に違いを感じますか?

「プリフロの3betレンジは広くなったと痛感しました。グランドリスボアで打ってたときは、3betはAA,KK,QQ,AKのどれかしかなかった。ほんとに。今はそれに加えて、ハンド以上にポジションや他の状況が重要になってきた。進化してより難解になってます。安全に勝つっていう、安全さが下がっている。もうちょっとギャンブルしなきゃだめになってきた。ギャンブルをするということは、スウィングがでかくなること。その中でエッジを取っていってトータルで勝つ必要があるから、バンクロールがいるようになってしまった」

─ 3年間を通して収支は?

「僕は年収はほとんど変わらなかったんですよ。大きなレートで打たなかったからかもしれませんが。でもみんなよりは少ないと思いますね。衣住食払って一ヵ月に70万円くらいずつ現金が増えていった感じ。僕は稼いだ金で財を成したってよりは、色々な経験にお金を使っていきましたね」

─ 強いプレイヤーとは、また強くなるために何をすべきですか?

「対応が大事ですね。よく『自分の型を持っている人が強い』」って言うけど、ポーカーはそうでもないと思う。みんな型があっちゃうから、その型が著しく偏っている人を見つけて、その人につけこんでく。自分は読み取られないようにする。逆に相手に型があると思わせるくらいの方がいいかもしれない。

あと、色々なルールを食わず嫌いせずにやってみることが大事ですね。得意苦手関係なくやってみる。今は検索すればすぐに答えが出てきてしまうけど、自分で思いっきり考えて、それから検索することが大事です。そうしないと、何かを考えなきゃいけないときに考えれないから。

僕は、天才っぽい人たちの意見を一個ずつ聞いて、それを考えていると答えに近づくことがよくありました。その人たちの答えがまるまる合ってるのは少ないけど、総合すると答えに近づく。赤のトップ、青のトップ、黄色のトップみたいな感じで、それぞれがいっていることを総合していくと、誰も考えてない色を思いつくんじゃないかな。簡単に言うといいとこ取りですね(笑)」

 

 

 

─三重県四日市市にポーカーバーをオープンされましたね。

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「はい、『Liiink』(リンク)という店をオープンしました。ポーカーを通じて何か社会貢献できることがあるって思って始めました。まだそれが何かわからないですが、その答えとなるキーワードがトーナメントじゃないかなって思ってます。行ったことないところへ訪れ、新しい人と会うきっかけになるので。そういうものを作れたらいいかなと思ってます。直近の夢は、ここからマカオやべガスへと旅立つプレイヤーが生まれることですね」

アミューズでは珍しくクラップスも置いてあります。初心者の方でも歓迎なので、是非一度遊びにきてください。ポーカーも勿論歓迎ですよ」

 

 

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こちらがクラップス台。大小と同じようにサイコロを使うが、
プレイヤー自身が投げるのが特徴的なゲームである。

 

 

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海外のポーカールーム同様、店内には
分煙のための喫煙スペースも完備されている。

 

 

 

(取材・構成/miyuki)

 

 

 

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